ARICA Qualityの雑記帳

人材育成支援、コールセンター業務支援を生業とする個人事業主の日々思うこと、感じることを気の向くままに記録しているblogです。

あの日を想う

あの日から4年。3月11日に日本にいるのは、あの日以来今日が初めて。
2011年11月に日本を旅出ち、2012年から3回の毎年3月11日は、遠く上海からただ祈りを捧げるのみだった。

2011年3月11日。その日は日帰り出張で名古屋にいた。ちょうどお客様先を出たのが14:30すぎ。地下鉄で名古屋駅に向かおうとしたら、地下鉄は止まっていた。少ししてから運行を再開した地下鉄に乗り、名古屋駅へ。
先ほど別れたばかりのお客様先の担当者から、「大きな地震があったようで、新幹線が止まっているかもしれない。大丈夫ですか?」との電話。まだ何も知らなかった私は能天気なことを言って電話を切り、大阪へ向かう同僚をなんとか動いていた新幹線に乗せ、私はとりあえず駅の喫茶店に入りパソコンを開いたり会社に電話してみたりした。
奇跡的に会社に電話が通じたが、対応してくれた同僚もとにかく混乱している様子で、東京でも相当大きな揺れがあったことを知っただけ。
同じく別の場所に出張に行っている上司にメールで無事であることを知らせると、「今日はきっと新幹線は動かないだろうから、今すぐホテルを取りなさい」との返信。すぐさま、会社が法人契約しているホテルが名古屋にあるか、どこにあるかを確認し、予約の電話を入れる。この上司の早い指示がどれだけありがたかったか、それは夜になって痛感することになるとは、この時はまだ知らなかった。

日帰りのつもりだったので、急な宿泊に必要なものを購入し、ホテルへ向かう。テレビをつけると目に飛び込んできたのは言い表せないほどの衝撃的な光景だった。大変なことが起こったことをようやく知った。

食事に行くため外出した時に、フロントは多くの人でごった返していた。「今夜空いていますか?」「申し訳ございません、満室でございます」という会話が聞こえてくる。上司の素早い判断と指示のおかげでホテルを探し歩くことなく寝床を確保できたことは、本当に幸運だった。

その夜は、結局お客様先の食事会に呼んで頂いた。それまで食事をする機会などなかったので、不謹慎だけれど色々話せて楽しい夜だった。そしてまだその時は、被害状況や被災された方々の人数、東京で起こっていた混乱なども知らなかったので、後になって大いに反省したと同時に、私はなんと幸運だったのかと神や仏やご先祖様に(とにかく何かに)、感謝せずにはいられなかった。

深夜になって家族や友人と連絡が取れ、無事を報告したけれど、何ともいいようのない不安に襲われ、よく眠れなかった。
翌日、ようやく動いた新幹線で東京へ。自宅付近で火事があったというニュースが流れていたので、自宅の様子もとても気がかりだった。

電車内や街の雰囲気や人々がどことなくどんよりとしていて、それが一層私の心を不安にさせた。自宅には、既に管理会社が様子を見に来たとみられるお知らせが入っており、こんな時に対応の早い会社だ(=いい会社だ)、と思ったことをよく覚えている。自宅の中は、高いところからの物が落下していたが破損したものもほぼなく、むしろ驚いた。

週明けから、会社でも電気をつけずコートを着ながら過ごす日が始まった。予定していたその他の出張も全て中止、珍しく暇な毎日だった。ただ、放射能について大騒ぎする周囲の人々に、少しイライラしていた。被災された方、家族を失った人たち、まだ行方不明の家族を探す人たち、原発付近にいる人たちに比べたら、なんと平穏に暮らせていることか。私は、普段健康オタクでもなくて、暴飲暴食、運動不足などそっちの方が放射能による被害よりもよっぽど健康のリスクが高いとも思っていたので、ここぞとばかりに周りが騒ぎ立てることが、無性に腹立たしかった。

あの時、私にできたことは、少しの寄付や節電とあとはただ祈るのみ、願うのみだった。

 

その少し前から転職を含めた自分のこれからのことを考え始めていた時でもあった。社会の大きな変化に不安も一層高まっていったことは、その年、歩みゆく針路を大きく変えることにもつながったのかもしれない。年齢的にもチャレンジするのは最後かもしれないと思った。人生観も変わった。

前から考えていたので、ちょうどタイミングが重なっただけだったけれど、あの出来事とその後の社会の状況が、少しは私の背中を押したかもしれない。そのせいか、「日本から逃げ出した」というほんの少しの負い目が、心の片隅で燻っていたことも事実。本当にほんのわずかだけれど。

 

昨年12月に帰国して、すぐに被災地を訪れる機会に恵まれた。やっと来られた、という思いが、心の奥の罪悪感を少しだけ軽くしてくれた気がする。大したことは何もしていないけれど。
一泊二日の短い期間だけれど、仮設住宅に暮らす方々の笑顔に私の方が勇気づけられたことは、忘れない。

 

あの日を思い出し、被災地に想いを馳せて祈ることに変わりはないけれど、ふとずっと日本にいなかったことに気がついた。

あの日以来、初めて3月11日を日本で過ごして思うこと。
これから先、願うこと、祈ることのほかに何ができるだろう。何でもいいからできることからやっていこう、と思って日々を過ごす。小さなことでも、できることを。そして、少しだけ大きなこともできる人になる努力を。